inotiyorokondeiru’s blog

もともと生まれながらの幸福を「命、よろこんでいる」と表現しています。

「命、生きている」ことが自己と気付くことです。

私達は何をしたら満足できるのか、とか、何かしたいことを考えることが先行してしまうようです。
それをもって、生きていると思い込んでいると言えます。
どうしたら、自分の思うように生きられるかと言うことが一番の関心事になっています。
五感以外には何もないほど、五感そのものと言えるようです。
その五感、六感が脳において機能する以前に、
すでに、「命、生きている」と言う、事実があることを、どう意識したらよいのでしょうか。
先ずは「生きている」この事実を意識することから始められたら、世界は変わります。
私達は見えること、感じることで生きていて、
見えないもの、感じられない何かは無い、と言う発想ができています。
よって、この「命、生きている」事実を意識するには、常識を棚上げしなければ、難しいようです。
「命、生きている」事実、つまり「自己とは命」と考えるとも言えます。
 
  命、よろこんでいる

脳が機能することができるのは。・・・

人は「命」の表れで、寿命を与えられた形と言えます。
つまり、人は形ですので、何時か必ず壊れる運命にあります。
全ての形は「命」がその原因であり、宇宙にしても宗教にしても、
それら全ての原因「命」を「命、よろこんでいる」と表現しています。
私達の五感、六感が脳において機能する以前から、すでに「命」があったことになります。
「命」が有るから人は生かされ、脳も機能できると言えます。
この「命」が「生きている」事実です。
しかし、全く脳は「命」を意識していない常識が出来上がっているようです。           
                           
                命、よろこんでいる

自分とは何か!を考える。

自己意識は何処から来ているのでしょうか。・・・
自分を意識することは、脳が意識していると言えるのでしょうか。・・・
つまり、脳が自分と言うことになるのでしょうか。・・・
確かに、何か考える、感じる、全ては脳の機能ですから、
脳になるのではないかと思えるのですが。・・・
しかし、自分が脳かと言えば、そうは言い切れない・・・ どこか違う思いも湧いてきます。
その違いを明確にできれば、其処が自己そのものと言えるのではないでしょうか。・・・
脳が機能できる原因、其処が何か、と考えると言うことになると思うのです。
 
「命」があるから人は生きていられるので、
脳は働くことが出来ると考えることが出来るのではないでしょうか。
 
        命、よろこんでいる

常識。

私達は、今まで生きてきたこれまでの常識をいったん棚上げすると言うことは、
出来ないと言ってもよいほど難しいようです。
私達が何かを考える時、必然的に今までの経験や知識が、その考え方の土台になっています。
自分の常識を棚上げして、どこまで人の意見を正確に聴くことが出来るかは、
素直に受け入れる心の姿勢が必要なようです。
他の人の考えを聞いて、押し付けられているとか、強制されているように感じてしまうのは、
これまでの常識を棚上げできないために起こると言えるようです。
今までの常識を棚上することができれば、
「命、よろこんでいる」に気付き易くなるのは確かなようです。
 
    命、よろこんでいる

言葉には力が。・・・

「命、よろこんでいる」ことをしっかり言葉にすると、その言葉そのものに力があると考えれば、
「生きている」ことを「よろこんでいる」と感じることが「幸福」とイメージし易くなるでしょう。
とにかく、次々に現象が飛び込んでくると、脳はすぐにそちらに反応してしまって、
「命、よろこんでいる」から、はるか遠くに行ってしまいます。
まるで、消されたようになってしまい、全ての人がもともと「幸福」で「よろこんでいる」ことに
全く気付かない状態になっているようです。
それでも「命、よろこんでいる」は、全ての人に成り立っていることは変わり有りません。
「命、よろこんでいる」ことをしっかり言葉にすることができれば、
私達はそれに気付く機能は持ち合わせています。
 
   命、よろこんでいる

「いつも生きている」事実そのもの「命」をもともと「幸福」と思うことです。

そう思うことができれば「生きている」ことが「幸福」となります。
しかし、「生きている」と言うことは「命」そのものですから、
私達の脳は、「生きている」ことそのもの、つまり「命」そのものを、
感覚としては感じることは難しいようです。
そこで、「生きている」そのもの、つまり「命」そのものを、
「命、よろこんでいる」と言う言葉にすると、

「よろこんでいる」と言う言葉が「よろこんでいる自分」になります。

そこからは言葉の力が役立つことでしょう。

「生きている」そのもの、つまり「命」そのものを「幸福」と気付くことができなければ、

私達は満足を求めることが中心になりますから、本能だけの生き方と何ら変わらなくなります。

ただ、ただ、矛盾の世界を生きるだけの生活になります。
 

「いつもよろこんでいる自分」を「命、よろこんでいる」と表現してみました。
 

           命、よろこんでいる

同じ思いの土台に気付くことです。

「命」が変化すると寿命になります。
寿命になると長寿や短命など時間的な差が発生します。
其処にはそれぞれの運命が付いて回ります。
それなりの寿命と言う形になると言うことになります。
私達の常識では寿命も命と言っていますが、
しかし、寿命は死の運命の下にありますから「命」とは区別できるのではないでしょか。・・・
「命」は全ての原因ですから、運命を超えています。
従って時間や空間も関係なく存在しています。
でも、見えない、感じない、影も形も全くありません。しかし全ての形の根源です。
その「生きている」ことを「よろこんでいる」と感じることが「幸福」と思うことができれば、
私達共通の「幸福」、つまり「命、よろこんでいる」と、
思うことが同じ思いの土台と言えるのではないでしょうか。

「命、よろこんでいる」と言葉にして言ってみてください。

根本的な世界共通の理解、に「命、よろこんでいる」を提案しています。
 
                            
 命、よろこんでいる