inotiyorokondeiru’s blog

もともと生まれながらの幸福を「命、よろこんでいる」と表現しています。

それぞれの思いの土台に気付くことです。

私達は、それぞれの思いに従って生かされているために、矛盾が生み出されています。
そこで、私達は「何のために生きるか」と言う問題が「共通の目標」にならなければ、
絶対に矛盾を避けられず、どうしても争いや犯罪、戦争が発生してしまうのは、矛盾の結果です。
私達、それぞれが自己実現を求めているだけでは、
矛盾を避けるられないと言っても過言ではないようです。
私達世界中の人々の「共通の生きる目的」、「それぞれの思いの土台」が明確になって、
その上に自己実現が後からついてくる形が最高の状態と言えるのではないでしょうか。
自己実現や個人の価値観では「幸福」は成り立ちません。
自分がすでに、もともと「幸福」であることに気付き、それを確認していることを、
「命、よろこんでいる」と表現しています。
「それぞれの思いの土台」、私達「共通の生きる目的」に「命、よろこんでいる」を提案しています。
 
      命、よろこんでいる

世界共通の幸福の提案です。

私達が自由に自分の好きな宗教を信仰し信心することを、楽しむことができるのは素晴らしいことの一つです。

しかし、本質を知らずに何かを信じることは、ある特定の宗教の神や仏に心が向きますから、
精神的には自分が絶対となってしまいます。
もし、他の宗派の教えを正しいと認めてしまえば、自分の信じたものの絶対性が失われてしまいます。なので本質的に、他の宗教、宗派の教えを認めることはできないようです。
他の宗教、宗派の教えを同等か、それ以上の教えであると思うことができないとも言えます。
よくよく考えれば、宗派の違いも、精神的自己満足の考え方の違いでしかありません。
しかし、どの様な場合であれ、たとえ宗教感が違っていても、「命、よろこんでいる」ことには変わりありません。

本質を「命、よろこんでいる」と言う言葉で表現してみました。

それを「世界共通の幸福」として提案しています。

そう意識して頂ければ「世界共通の理解」が確立していくと思うのです。

「生きている」ことを「よろこんでいる」と感じることが「幸福」と言うことを、

「命、よろこんでいる」と表現してみました。          命、よろこんでいる

人生の土台に気付くことです。

「同一の命」が「生きている」ことを「よろこんでいる」と感じることが「幸福」と気付けば、
全ての人は共通の同じ、絶対に公平な「幸福」が成り立つでしょう。
そうであれば、たとえ宗教感や民族主義の違いが有っても、私達は「共通の幸福」、
つまり「命、よろこんでいる」ことに、全く変わりはありません。
しかも、自分のこだわりや考え方に縛られなくて済むと言うものです。
「命、よろこんでいる」共通の「幸福」が全ての人の土台になっています。
そのことに気付けば、色々な違いを楽しみながら信仰を楽しむことができると言うことで、
宗教、宗派の違いも気にする必要はありません。
違いとは、人生を楽しむ為の人生模様でもあります。   「幸福」の確立とも言えます。
 
           命、よろこんでいる

みんなの命も、私の命も、同じ命です。                

 

全ての人が「同じ命」で生かされています。
その「同じ命」、「生きている」ことを「よろこんでいる」と感じることが「幸福」と気付けば、
絶対に公平な「幸福」が成り立つでしょう。
それを「命、よろこんでいる」と表現しています。
そう言い、意識することによって全ての人が「幸福」の確認ができると言えるのではないでしょうか。
「命、よろこんでいる」ことを全ての人の共通の理解に提案しています。
 
                命、よろこんでいる

脳が何を考えるかで、大きく変わります。

素直にそうなんだと感じたり、そうなりたいと感じたり、等・・・

感じ方は同じではないようです。

形の世界は違いの世界とも言えるからです。

私達は「命は生きている」事実に気付くまでには、結構時間がかかるようです。

余りにも周りに起こる現象が気になり過ぎるからです。

しかし、「命、よろこんでいる」と意識し、そう言えれば、

脳が何を考えようと、現象の変化にも平気で過ごせるように成って来るでしょう。

皆が「命、よろこんでいる」ことに気付けば、

この世界の本質的な解決が始まったと言っても過言ではないと思います。

「生きている」ことを「よろこんでいる」と感じることが「幸福」です。

 命、よろこんでいる

こんな詩如何でしょうか。

私が生きているのは 命があるから
 
それは 命がよろこんでいる こと
 
それが 私のしあわせ ・・・・・
 
命がよろこんでいる 私は感じないけれど
 
地球は たしかに まわっている 心が感じないけれど 
 
命は生きている そうだよ 
 
命はよろこんでいる よろこんでいる               
 
                        神野 表次 作
 
    命、よろこんでいる

単なる理想になるのでしょうか。

 

「命、よろこんでいる」ことが、理解されていないと、
それは単なる理想になるか、一種の宗教と混同してしまうでしょう。
影も形もない「命」と言う全くの無の何かを、少しでも理解できるようにと無理やりに、
「命、よろこんでいる」と言う言葉にすると、その言葉とは必ず反対の発想をしてしまいます。
ある形にしてしまうと、そのことで相対的になって、本質の「命」から離れてしまうのです。
「命、よろこんでいる」ことが、本当に理解できた社会であれば、
お互いが助け合ったり、利益を分け合ったりすることが楽にでき、
お互いに、仲が良い、好かれていることが常識になっています。
全ての人が共に同じ「幸福」であることを「命、よろこんでいる」と言う言葉で表現しています。
 
   命、よろこんでいる