inotiyorokondeiru’s blog

もともと生まれながらの幸福を「命、よろこんでいる」と表現しています。

「生きている」こと、と、脳の働き。

私達が(生きている)と意識すれば「命は生きている」と感じるのではなく、
正確に言えば、脳の働きで感じることを(自分は生きている)と思っているのです。
実は「命」によって、生かされていると考える方が正確と言えます。
脳の働きは「命が生きている」ことによって成り立っていると言えます。
人間は心臓によって(生きている)と言う人がいるくらいですから、
「命は生きている」その結果で、初めて脳が反応する・・・・・・・
この様なことは、いまだ一般的な常識になっていませんから、
考えたこともない人が多いのは確かです。
脳の働きによつて「自分が生きている」と思い込んでいる私達は、自分の満足のために、
したいことやしなければならないことが(生きている)ことになっているのです。
いったん出来上がっている常識は簡単には変わらないようです。
とにかく、全て脳が支配していると言っても過言ではないほどにです。・・・
しかし、私たちの脳は「命、よろこんでいる」ことに気付く機能を持ち合わせています。
 
       命、よろこんでいる

「命、生きている」と言うことは、「私が、いつもよろこんでいる」と言うことです。

五感、六感は実感そのものですが・・・「命」「生きている」ことは全く実感がないようです。
「命」は影も形もありませんが、全ての土台ですから意識しなければ気付けないようです。
「生きている」という理解では、感情に響いてこないようです。
それに、「生きている」は単なる寿命と理解されやすいので、
「命、生きている」を「いつも、よろこんでいる」と意識します。
それも満足感を超えて「いつも、よろこんでいる」と意識します。
そう毎日イメージトレーニングできれば、
いつの間にか「私がよろこんでいます」が常識になっています。
大抵の問題は、お互いのこだわりが引き起こしています。
この様にできれば、こだわりが楽になると言うものです。
だから、色々な問題が起きても楽に解決ができるようになります。
 
  命、よろこんでいる

全ての人が共によろこんでいる同じ幸福とは何か。・・・

私達の社会では、どんなグループにせよ、
他のグループとの違いを際立たせたいと思っています。
個人にしても、他人と同じ服は着たがらない人がいっぱいいます。
満足感は一人一人、皆、違っているからです。
その考え方が誰でも考えている常識となっています。
 
 
それらを乗り越えられる、
共によろこんでいる、全ての人に同じ幸福があると考えられるのでしょうか。・・・
満足感とは全く区別して考えて見てください。・・・常識を外してみてください。・・・
「命」は絶対に同じです。
寿命を超えたその「命」をどう意識するかと言えます。
何かとは。・・・「命」が共によろこんでいる全ての人に同じ幸福と言うことになります。
それを「命、よろこんでいる」と表現しています。
 
   命、よろこんでいる

満足は無制限。

動物は本能で生きています。
人間はそれにプラス満足感を追求できる能力を持っています。
つまり、動物はそれぞれ生き方が決まっていますが、
私達は欲望次第で果てしなく満足を求めます。満足は無制限といえます。
しかし、そのしっぺ返しは不満足で見舞われます。
私達は皆それぞれ自分の満足感にこだわっていますから、
どうしても比較や競争に明け暮れています。
おまけに喧嘩や犯罪を起こし戦争にまで発展させてしまい、救いようがないほどです。
しかし、人類が共通な「幸福」で共によろこび合えたら、きっと世界は「平和」になることでしょう。
「人類共通の幸福」を「命、よろこんでいる」と表現しています。
 
               命、よろこんでいる

これも、欲望の結果と言うことでしょう。

日本は世界で唯一の被爆国です。
放射能の恐ろしさを経験して、再び原爆の使用がないことを願って、
原子力の持ち込み反対運動、等が行われてきました。
でも、いつの日にか原子力エネルギーに依存してしまい、
3.11東日本大震災による福島第一原発事故が起こり、
再び放射能汚染に苦しめられる羽目になりました。
こうなって、原発だらけの将来を心配し始めました。
それでも、まだまだ本腰になり切れないようです。
エネルギーのおかげの贅沢は離せないのでしょう。・・・心残りがまだまだいっぱいあるようです。
いったん持った贅沢は、そうやすやすと離せない欲望があるからです。
知識はびっくりするほど増えていますが、学習する能力はあまり増えていないようです。


 

ますは、何時も生きている何時もよろこんでいるもともとの幸福命に気付くことです。

   命、よろこんでいる

我々は動物ですが、動物そのものではないと思います。

こだわりを他の言葉で言えば、執念と言えるのではないでしょうか。・・・
執念の深さが名作を生み出したり、職人さんが言う「こだわりの逸品」など、
そういう思いを持ち続けることが、何かを生み出す力の源になると思うのです。
そのこだわりにも、良い面と悪い面があります。
こだわったからこそ、古い文化が残り、習慣ができたといえます。
あえていえば、我が家の伝統があり、
なおいえば、争いがあり、戦争があると言えるのではないでしょうか。
そうこだわった結課が、世界の為になるか、ならないかは、
結果を見ないとわからないことが多いようです。
私達の社会では、まず結果を出さなければ、なかなか認められません。
残念ながら、強いものが残るのは、自然の法則です。
確かに、動物は強いもの勝ちですが、…私達人間も動物と同じなのでしょうか。・・・
私達は動物そのものではないと思うのですが如何でしょう。・・・!!
私達は「命、よろこんでいる」に気付く機能は持ち合わせています。
 
        命、よろこんでいる

常識を棚上げしてみてください。本当の自己を確認できます。

私達は生きているのは当たり前と思っていますから、
「生きている」を意識するには、わざわざ考えなければならないようです。
しかし、「生きている」ことを「よろこんでいる」という言葉に変えて見ると解り易くなります。
何をしていても、していなくても、起きていても、寝ていても、
何時も「よろこんでいる」ということになります。
つまり、「生きている」=「よろこんでいる」ということになります。
それがまずは存在しているといえるでしょう。
自分とは「よろこんでいる」そのものと意識でき、思うことが出来れば、
「本当の自己」に気付いたと言えます。
「命、よろこんでいる」と意識でき、思うことができ、そう口にすることが出来れば、
「本当の自己」を確認しているとも言えます。
「私が幸福そのもの」と気付くことから、新しい人生が始まるといえるでしょう。
 
                   
   命、よろこんでいる